生麦事件

リチャードソン絶命現場

横浜市鶴見区生麦・国道15号線横浜方面に向かって左側


 
1862年9月14日(文久二年八月二十一日) 鹿児島に帰郷途上の薩摩藩主 島津久光の行列に英国商人
リチャードソンほか数名が騎乗した馬が半ば暴走の体で横断した。
大名行列を見物していた一行が馬を制御出来なかった事故だが護衛の薩摩藩士は、武家の法度に従い
無礼討ちにした。
リチャードソンが討ち取られ婦人を含む数名が刀傷を負った。
これを事件現場(相州生麦村)の地名から 生麦事件 という。
幕府に往年の威光はなく、賠償金を払って穏便に事件を済ませようとした。
イギリスは謝罪と下手人の引き渡しを要求し軍艦を鹿児島湾に派遣した。
世に名高い 薩英戦争 となるのだが、薩摩藩は善戦し英国艦隊を撃退する。
後の連合艦隊司令長官・東郷平八郎も若武者として出陣している。
しかし外国の高度な技術と武力を知った薩摩藩は攘夷思想を捨て英国に学ぶようになる。
英国も弱体となった幕府を見限り勇敢で礼儀正しい薩摩藩と親交を結ぶ。
後の日本海軍が英国に範をとる伏線がここにある。
日露戦争で英国はロシア・バルチック艦隊の日本への回航を全力で妨害する。
薩摩藩士だった東郷平八郎は日本海大海戦でバルチック艦隊を全滅させるのである。
アジアの奇跡といわれ大国の仲間入りする日本の黎明をこの石碑に見る思いがする。
改めて犠牲となられたリチャードソン氏の冥福を祈る  



当時、このあたりは松原であったという。
今は激しく車が行き交い往事の面影は無い


この地は、リチャードソンが絶命した場所で、刃傷の
発生現場は670m程、江戸に寄った方である。
(二股に分かれた東側、
   細い旧道の方・・お間違えの無いよう
 =下記リンク参照)
深手を負いながらも逃げてきたリチャードソンが
力尽きて落馬し、追ってきた薩摩藩士によって
“楽にさせられた(=とどめをさされた)”場所である。

関連リンク1 → 刃傷事件発生の地

関連リンク2 → リチャードソンの墓